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PN-275 (67-0275)

1979年よく単独で飛来し、嘉手納のF-4C/Dと共同訓練をしていたF-4E PN-275 このファントム、1972年ベトナム戦でMig-21撃墜の記録を持った機体らしい。

↑”PACAF”のマークは、小型化されてしまったが3rd TFSのマークも入ったフル塗装のF-4E。このPN-089は、後に横田にも何度か 飛来している。3rd TFWの機体は、1980年代後半にはグレーのエジプト・ワンと言う迷彩になったが 私は撮ったことがない・・・フル
Wings

↑ 1978年3月 嘉手納R/W05の国道沿いで撮影をしていたらPN-555とPN-344が離陸して行ったので 証拠写真を一枚。このF-4E PN-555(69-7555)は、1982年に朝鮮半島のクンサン基地で墜落して失われている。

 ”PN”のレターをつけたF-4E、それは私にとっては永らく憧れの存在だった。何せ日本から遠く離れた南国に駐留する部隊であり撮影の機会がなかったもので、初めて嘉手納で撮影できた時等は貴重な宝でも手に入れたような気分になったものだ。ベトナム戦の頃は、405th FWのF-4D”PN”が横田基地にも度々来ているが、私が撮影を始めた1970年中盤の頃は”PN”が撮れる事は日本本土では殆ど無かった(・・と思う)。後に見事な388th TFW並みのシャークマウスを入れるようになってからは、横田基地にクロスカントリーでよく飛来するようになったが、逆に私自身が就職の関係で撮影にいける環境で無くなった為、あまり撮れず消化不良気味だった。ベトナム迷彩のF-4Eを思い切り撮ってみたいと言う思いが今でも残っている。
PN-312 (68-0312)
PN-344 (67-0344)
Insignia of 90th TFS
PN-089 (71-1089)
↑ 1978年3月に初めて撮影した3rd TFWのF-4E尾翼の”PACAF"のインシグニアはまだ大きかった。この時 安物のZoomレンズを使っていた為、機首にピントが合っても絞りがたりないと尾翼がピンぼけ・・・これを反省に200mmの単焦点レンズに買い換えた。
3TFS / 90TFS  (F-4E/G)
Insignia of 3rd TFS
↑ 嘉手納R/W23-RにランディングするF-4E(PN-312)。オーバーホールして間もない為か 塗装が真新しい、上のPN-344と迷彩パターンが若干異なる。テールレター以外 所属を判別できるものは 何処にも書かれていない。但し、この機体がこの年に第3戦術戦闘航空団の司令官機に指定される事になるので、この後フィリピンに戻って塗装が行われたのであろう。

↑ F-4E/67-0275は、1978〜1979年頃 嘉手納にも度々飛来したが、撃墜マークは落されていた。1976年当時は、左側インテークベーンにベトナム戦争時代の撃墜記録が赤い星で示されており注目の機体であった。

第3戦術戦闘航空団(3rd TFW)のF-4Eは、フィリピン空軍と共同してフィリピン各諸島の防空を目的としていた。しかしベトナム戦争後、当時のフィリピンには脅威となる仮想敵国はなく、ゲリラ対策で地上攻撃に熱心なフィリピン空軍同様、第3戦術戦闘航空団も制空/防空より地上攻撃の方に訓練も予算も使っていたようだった。嘉手納の67th TFSがF-15Cに機種交換し、対レーダーサイト攻撃(ワイルド・ウィーゼル)の役割をF-4Gの配備を受けた90th TFSが受け持つ事になって、益々この傾向が強くなった。F-4Eの行動半径で言えば、フィリピンから極東への直接の作戦行動は難しい為、地上攻撃の後方支援部隊として、有事となれば沖縄のKC-135支援を受け韓国各基地/横田/三沢にも展開して行動しただろう。クロスカントリーはそう言う場面を想定した訓練の1つでもあったはずだ。

↑ 1976年頃の3rd TFWの基本的なベトナム迷彩。注意書は白色で各所の書かれており、テールレターもライトグレーで明るい塗装である。1974年からクラークに移動してF-4Eを受領しているが、初期の塗装では飛行隊マークは左側にあったようだ。F-4E/68-0468は、1990年に韓国空軍に売却されている。

↑ 1978年太平洋航空団(PACAF)を代表する部隊として、アメリカ本国で開催されたウィリアム・テル1978に参加した際の記念塗装である。尾翼のチップは、星条旗の3色で塗られPACAFの文字が書かれている。F-4E/68-0410